海上保安大学校地誌~吉浦村池濱(生浜)の変遷~
海上保安大学校の敷地は、明治中期以降太平洋戦争終了まで、海軍火薬庫、兵器工廠として使用され、海軍施設となる前は「吉浦村池濱」と呼ばれ、集落があった。
海上保安大学校創立70周年にあたり年表、資料などから、当地の海軍施設となる前から現在に至るまでの地誌と大学校70年の歩みを振り返る。
池濱(生池)に関する年表 明治時代
この年表は、新宅春三著『年表で読む ふるさと吉浦の今昔』(平成10年)より、海上保安大学校敷地である呉市若葉町、古くは「あきのへ」「明けの夜」「池濱(生浜)」と呼ばれた地区に関する記述を引用し、関連する写真やパネル、図表などを付け加えて作成したものである。
明治7年 (1874年)
3月31日に戸長の細馬善右衛門が、第三大区の副区長(戸長筆頭)に任命されたために、細馬幾右衛門が戸長に就任した。この年「角屋」野間智覺覚書による、吉浦の推定戸数・人口は左の通りであった。
落走 62戸
本郷 645戸(西浜、東浜、東上、松葉、岩神、箱崎)
池濱 30戸
川原石 112戸
両城 25戸
合計 874戸
推定人口 4107人(一戸当たり4.7人として計算)
明治16年 (1883年)
2月10日、海軍水路局の肝付兼行少佐や、三浦重郷中尉等が東郷平八郎艦長の軍艦(測量艦)第二丁卯ていぼう丸で呉浦に入港し、東は吉名村から西は山口県由宇村までの沿岸を測量して、7月25日に長崎に向かったが、この測量で呉四浦の海が、軍港の候補地として有力視された。
明治19年 (1886年)
4月10日、海軍次官で海軍中将の樺山質紀、海軍中佐の佐藤鎮雄や海軍顧問でフランス人の造船技師ルイ・エミール・ベルタン等が、宮原、和庄、荘山田方面で造船所以外の海軍施設候補地を視察して、夕方、池濱に上陸して火薬庫の候補地を検分した。
明治20年 (1887年)
3月、宮原後面の工事が一段落して手待ちになった民間建設会社は、三ツ石山麓の池濱火薬庫の敷地整地を臨時に請け負って工事を進めた
明治21年 (1888年)
この頃、民間建設会社が施工の池濱火薬庫設置場所の整地工事も概ね完了した。池濱には明治18年頃から既に火薬庫が置かれていたという説もあるが、この後から本格的に置かれるようになったのであろう。
この頃の事であろうか年代不詳、池濱山の中腹に祀られていた細馬家の荒神社(海上保安大学校の北東側にある山の稜線にあったと言う)の下の畑にあった老松の根元から、舟形の石棺(長さ約1.8メートル、幅約60センチ)が出土して、その中に人骨・鉄剣一振・山槍二振と、曲玉が納められていて、その廻りから大量の土器が出土したが、すべてエンポ(藁で編んだ背負い袋)で、海岸まで運び埋め立てらたと言う。
明治27年 (1894年)
11月、池濱の一帯が海軍用地として買収され、直ちに整地工事が始められた為に、約30戸全ての住民が立ち退いた。「面屋」の細馬氏は准如上人から下賜された新仏を護持して、荘山田村の片山に移ったが、「新屋」の細馬氏を始め殆ど住民は、当時三軒程しか家がなかった潭鼓に移り住んだ
(参考)
この人達の姓は「面屋」細馬氏の一字を受けて、細谷・細田・細川・細井・細間・細本など「細」の字が付いた姓が多い。
明治33年 (1900年)
11月17日、池濱の海軍火薬庫に貨物船「常陸丸」が運んできた火薬を和船に積み替えて陸揚げ作業中に、27坪の火薬庫が爆発して、死者18人負傷者7名の大惨事が発生した。
明治36年 (1903年)
11月10日、海軍工廠条令が制定されて、造船廠と造兵廠が合併して呉海軍工廠となった。この条令で池濱の火薬庫の名称が「呉海軍工廠造兵部第六工場附属火薬庫」となった。
明治42年 (1909年)
4月28日、勅令第118号によって、池濱に海軍火薬試験所(後の砲熕実験部)が設置された。(この頃、造兵部が砲熕部と水雷部に別れた)
池濱の三ツ石山の麓にイギリス海軍に倣い無煙火薬安定度等の試験を行う火薬試験所を設置することになったが、何分にも平地が少なく、そのために宮谷から北側の池濱山(海上保安大学校の北東側)を削り取って、「あきのへ」と呼んでいた海岸(海上保安大学校の北側)を埋め立てて、その削平地に試験所を建設した。
池濱山の中腹には細馬氏一族の「荒神社」が祀られていた跡が有り、この附近を削り取る時に、大量の須恵器が出土したが、当時は一般に考古学の知識も少なく工事を急ぐ為に土砂と一緒に海中に投棄して埋め立てられ、わずかに数点が個人所有で現存するのみである
【あきのへの変遷図】
調査文責 事務局長 田中裕二