海上保安大学校地誌~吉浦村池濱(生浜)の変遷~

海上保安大学校の敷地は、明治中期以降太平洋戦争終了まで、海軍火薬庫、兵器工廠として使用され、海軍施設となる前は「吉浦村池濱」と呼ばれ、集落があった。
海上保安大学校創立70周年にあたり年表、資料などから、当地の海軍施設となる前から現在に至るまでの地誌と大学校70年の歩みを振り返る。

池濱(生池)に関する年表 古墳時代~江戸時代

この年表は、新宅春三著『年表で読む ふるさと吉浦の今昔』(平成10年)より、海上保安大学校敷地である呉市若葉町、古くは「あきのへ」「明けの夜」「池濱(生浜)」と呼ばれた地区に関する記述を引用し、関連する写真やパネル、図表などを付け加えて作成したものである。

古墳時代

 池濱古墳、三ツ石山遺跡

【広島県遺跡地図】
旧海軍の施設工事中に大量に発掘されたものの、土砂と一緒に埋め立てに廃棄されたという。わずかに数点が個人所有にて現存するのみ。

広島県遺跡地図
池濱古墳 三ツ石山遺跡からの出土品
藤拐(ふじかい)遺跡

飛鳥時代

安芸国の豪族佐伯鞍職の勘定で厳島神社が創建されたと言われるが、この神様が厳島に鎮座される前に池濱で一夜を過ごされ、蚊に攻められ夜明けを待ちかねて、『ナーシタ明ヌ夜ジャ、アケヌヨジャノー』と嘆かれて、それからこの地を「アケヌヨ」が何時の間にか「あきのへ」と呼ぶようになったという伝説がある。

平安時代

源氏物語」の作者として有名な紫式部が、池濱で生まれ「あきのへ池」で産湯を使ったという伝説がある。

紫式部の父親は越前守藤原為時といい、天皇家と結び多くの摂政・関白、太政大臣や、のちには近衛・鷹司・九条等の公家家を出して、我が世の春を唄った藤原北家に生まれ、文人としての才幹を一条天皇に認められて受領として任地の筑前国から、任務を終えて上洛の途中、池濱に立ち寄った時に同伴していた妻(藤原為信の娘という)が産気づいて、「あきのへ池」の水を産湯に紫式部が生まれた、という伝説。

吉浦八幡神社の裏、運動公園隣の池濱を望む丘に平成二年、碑が建立された。

『かくまでに 思はざりしに 来て見れば いと住みやすき よし浦のさと』

藤原為時が読んだ和歌と言われ、碑文には「この和歌は呉亀山皇城宮由来記によると平安時代紫式部の父藤原為時が筑紫より上洛の途吉浦生浜(現在の若葉町)に寄港した折に詠じたという伝承があります」と刻まれている。

文治元年 (1185年)

2月、屋島の戦いで源義経に敗れた平宗盛をはじめとする平氏一門は、安徳天皇を奉じて西海の彦島に逃れたが、この前後に多くの者が逃亡した。

(伝説)
平氏一門の中には、恒例の厳島参拝の折に、音戸の瀬戸を通り水夫達の手を休める為に、よし浦の「あきのへ」に上陸して一休みしてから、厳島神社参拝をしたものが多くおり、又音戸の瀬戸開削の時に出役した顔見知りもいて、この辺りの地理人情に詳しく、屋島の戦いに敗れて西海に逃れる時に、勝手を知った「あきのへ」に上陸して後、潭鼓(たんこ)の丸山辺りに移り住んで村の漁師や百姓たちとも打ち解けて生活を始めた。

ところが、源氏の大将範頼の部下等が、落ち人狩りをするとの噂が伝わって、物見山(魚見山)の奥に移って難を避けようとした。やがて源氏の武士達が落ち人の探索を始めたが、村人は「平清盛」以来平氏から受けた恩顧に報いる為に、落ち人をかばって源氏に知らせなかった。源氏では落ち人の首を持ってきた者や、隠れ場所を知らせた者には褒美として銭を与えると言って、村人達に御触れを出した。

村人の中には何処からか死人の首を持って来て銭を貰う者もいたが、強欲な一人の男が平氏の隠れ住んでいる物見山の奥の谷間を教えた為に、平氏の落ち人は無残にも皆殺しにされた。

この時、銭欲しさに隠れ場所を教えた強欲な男も首を切られたというこの場所を首銭平といい、地獄谷と呼ぶ場所もある。

沢原家文書 吉浦村文化度国郡誌
藤原為時和歌の碑

寛永11年 (1634年)

4月1日、妙蓮寺(現在の吉浦中町の誓光寺)六代目住職空玄が、50歳になったのを機会に還俗して、細馬六右衛門と名乗り、本願寺准如上人から下賜された新仏を護持して、末子と共に池濱に隠居してこの地に永住した。

元禄9年 (1696年)

この年、「あきのへ」で海岸が築調されて畑方2反(600坪)、両城にも田方6反畑方1反(合計2,100坪)の、高付けされない御見取新開が造成されたが、あきのへ新開は高潮の為に流されてしまった。

享和3年 (1803年)

この頃「あきのへ」で、妙蓮寺から移り住んだ細馬六右衛門(空玄)の子孫等が、新開壱反壱畝拾八歩(約348坪)を造成して畑として耕作を始めた。

池浜衆を見守り続けた荒神社

文化3年 (1806年)

3月18日、「伊能忠敬」を隊長とする公儀天文方の測量隊が、三ツ石の岬から中之島(大麗女島)を回り麗女島までを測量し、その夜は呉町の庄屋十右衛門宅に宿泊して翌19日に三ツ石から大屋(天応町)・小屋(小屋浦)境迄を測量した。

文政8年 (1825年)

「頼杏坪」等が『芸藩通志』を完成させた。

芸藩通志

文政10年 (1827年)

この頃、池濱の「面屋」細馬喜右衛門の山から、瓦土が出土して池濱で瓦を屋いていたと言う。この瓦は品質が良かったものか、丑年(文政12年?)江戸普請の際、藩庁は「末永来助」に瓦の焼出しを申し付け、更に天保6年(1835年)にこの修造用として、1,000枚を焼出すよう申し付けたと言う。

調査文責 事務局長 田中裕二

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