海上保安大学校地誌~吉浦村池濱(生浜)の変遷~

海上保安大学校の敷地は、明治中期以降太平洋戦争終了まで、海軍火薬庫、兵器工廠として使用され、海軍施設となる前は「吉浦村池濱」と呼ばれ、集落があった。
海上保安大学校創立70周年にあたり年表、資料などから、当地の海軍施設となる前から現在に至るまでの地誌と大学校70年の歩みを振り返る。

海上保安大学校に関する年表 昭和~平成

昭和25年 (1950年)

2月、旧海軍工廠火工部三ツ石地区が、英連邦軍(豪州第一七工兵隊)から返還されて、第二二工場の跡に民間企業が進出して工場の整備や整備の改善を始めた。
9月、三ツ石地区に続いて、その他の大部分が英連邦軍から返還された。
11月1日、英連邦軍から返還された旧海軍工廠火工部跡に、「海上保安訓練所」が開設された。これに伴い、旧火工部跡に進出していた民間の工場は、広の現在地に移転した。

海上保安訓練所開所式で長官を出迎える訓練生(昭和25年11月)
海上保安訓練所開所式で挨拶する海上保安庁初代長官大久保武雄氏(昭和25年11月)
雑木を伐採する訓練生 (昭和26年)
海上保安訓練所1期生見送り

昭和26年 (1951年)

海上保安大学校創立 6月11日、東京越中島の旧高等商船学校跡で第一期生99名の入学式を挙行。

8月1日、「栗橋」が大学校の初代練習船となる。

12月17日、日比谷図書館から旧海軍大学校図書約14,000冊を譲受。後に防衛庁へ約2,500冊を移管。

初代練習船「栗橋」

昭和27年 (1952年)

4月25日、本科第一期生が呉に移動。

5月6日、本科第二期生の入学式を挙行し、6月11日に広島県と呉市共催の歓迎会が催され、名実ともに呉での海上保安大学校が発進した。

昭和29年 (1954年)

1月1日、第二代練習船に「こじま(旧海防艦「志賀」)」を指定、4月から実習生を受け入れつつ、遠洋航海に必要な改装を行う。

6月15日、初代練習船「栗橋」解役

10月1日、「こじま」による第4学年(第一期生)の航海実習開始、日本一周航海の一部に遠洋区域である東経175度線を超える海域への往復を組み込んだ航海実習であった。

練習船「こじま」(初代)

昭和30年 (1955年)

3月25日、本科第一回卒業式、卒業生77名のうち、22名は新設の海上自衛隊一般幹部候補生として内定しており、海上保安庁独自の養成士官となり研修科甲(現在の専攻科)に進んだものは52名であった。

4月1日、海上保安大学校が同居していた海上保安訓練所は、舞鶴に開校した海上保安学校と統合され、呉の教場は廃止となった。

4月28日、幹部職員への登竜門として、現場職員の特別研修課程として別科(現在の特修科)が設けられ、別科第一期生9名が入学。

10月5日、第二期生が遠洋航海出港、外国への寄港(ホノルル)が実現。

昭和30年頃の海上保安大学校

昭和31年 (1956年)

6月11日、校歌誕生、海上保安大学校開校5周年を迎えて校歌が作られ、5周年記念式典で発表された。作詞-永井新三(当校助教授)、作曲-高田信一(広島大学音楽科教授)

海上保安大学校校歌

昭和33年 (1958年)

9月12日、正門完成。進駐軍施設を転用したままの角材と有刺鉄線の正門から、現在の正門に作り替えられた。

完成した正門
現在の正門

昭和34年 (1959年)

1月30日、海上保安大学校校旗制定。3月24日挙行の本科5期の卒業式から使用された。

4月25日、本科3学年より航海・機関・通信の3コースの分科教育開始。

海上保安大学校の初代校旗

昭和36年 (1961年)

開校10周年、6月6日に記念式典が行われ、学生会における開校記念祭では呉市内小中学生写生大会が行われた。

開校記念祭しおり
開校記念祭しおり
ファイヤーストームの状況
開校記念祭の状況

昭和39年 (1964年)

5月20日、練習船初代「こじま」解役、新造練習船二代目「こじま」就役、本科10期生の遠洋航海が処女航海であった。

練習船「こじま」(二代目)
昭和38年頃の海上保安大学校

昭和41年 (1966年)

2月28日、本科卒業生に対し大学院への入学資格付与され、翌42年4月から6期生1名が広島大学大学院工学研究科に入学して機関工学を専攻。以後、卒業生が大学院で研究を重ね、当大学校教官として後進の教育に当たる。

昭和40年頃の海上保安大学校

昭和42年 (1967年)

1月26日、県道 (峠廻り道路)から正門に至る市道が舗装された。

7月9日、呉地方で集中豪雨が発生し、市内全域が浸水。山崩れなどの大災害を被った呉市から救援出動の依頼を受け、「海上保安大学校災害救援隊」を編成、7月16日から18日までの3日間、教職員・学生等が復旧作業に取り組んだ。

舗装された市道
災害救助隊の状況
災害救助隊の状況

昭和45年 (1970年)

9月7日、潜水技術研修開講。現在の「海猿」と呼ばれる潜水士を養成する研修が始まる。開講当初は水深10m未満の水中における基礎的な自給気潜水技術の取得を目的として、年二回行っていたが、昭和48年からは水深40m未満の水中技術の取得を目的とする研修となった。

12月21日、第一実験棟完成。これ迄、旧海軍火工部跡をそのまま実験室等として使用していたが、老朽化が激しく、各実験室も分散して教育効果が著しく阻害されていたことから、鉄筋コンクリート4階建てとして昭和44年から2か年で工事を進めた。

 

潜水研修の状況
昭和45年頃の海上保安大学校
完成した第一実験棟

昭和46年 (1971年)

5月8日、本科第17期生が初の西南太平洋方面への遠洋航海に出航。これまで実施された遠洋航海はハワイや米国西海岸へ向かう航海であったが、この年は初めて赤道を超えてオーストラリアなど西南太平洋へ向かう航海が実施された。翌47年も同様のコースで実施されたが、それ以後、西南太平洋方面への遠洋航海は実施されていない。

昭和47年 (1972年)

8月28日、5海里の遠泳訓練中であった本科1学年学生が約4.1海里泳いだところで力尽き、死亡した。学生寮食堂南側にある「悠遠の碑」はこの事故の教訓を後進に伝えるため昭和50年に三ツ石山に設置され、校内整備の関係で食堂南側に移設され、現在に至っている。

11月7日、潜水訓練用プール完成。

設立当初の慰霊碑(三ツ石山上)
現在の慰霊碑(三ツ石寮南側)

昭和48年 (1973年)

7月9日 川崎ベル式ヘリコプター(SH102)を教育参考資料として校庭(現在の研修センター敷地)に据え付け、翌年にはシコルスキーMH152を据え付け、航空機への大きな関心を寄せる学生の士気高揚と一般市民への海上保安思想の普及に努めた。

12月3日、A棟(鉄筋2階建)とB棟(鉄筋平屋建)からなる第二実験棟が完成。

昭和50年 (1975年)

2月17日、本科卒業者に対して司法試験の一次試験が免除される。

昭和51年 (1976年)

11月5日、本館完成。11月30日に竣工式を挙行。近代的な機能を備えた白亜の殿堂として、波静かな呉湾の一角に威容を誇っている。

昭和51年頃の海上保安大学校
海上保安大学校本館

昭和52年 (1977年)

2月25日、潜水調査船「しんかい」を教育参考資料として校庭に設置、既に展示されているヘリコプターと並んで展示され、海上保安思想の普及に大いに役立った。(「しんかい」は平成17年(2005年)に呉市に引き渡し、ヘリコプターは平成6年(1994年)に撤去された)

海上から搬入中の「しんかい」
展示中の「しんかい」

昭和54年 (1979年)

8月26日、新学生寮(三ツ石寮)完成。それまでの木造平屋4棟からなる旧学生寮にかわり、鉄筋4階建て、収容人員380名(当時)からなる新寮で、これ迄分散していた浴室、食堂、医務室、病室、売店など生活に必要な施設を集約し、呉湾を一望できる良地を得て快適な学生生活が送れるようになった。

三ツ石寮

昭和55年 (1980年)

4月10日、初の女子学生入学。昭和54年の第30期生採用試験には23名の女子が応募し1名が合格、翌年4月に女子学生第一号として入学した。

5月15日、海上保安資料館開館。海上保安庁創設30周年記念事業の一環として、海上保安庁の足跡を後世の職員に伝えるために海上保安協会が企画し、職員等からの寄付や、日本船舶振興会、日本海事財団からの多大な協力を得て建設された。

海上保安資料館
昭和58年頃の海上保安大学校

昭和60年 (1985年)

5月29日、講堂兼体育館完成。鉄筋コンクリート一部3階建で、体育室に柔・剣・空手道場、トレーニング室を併設。

講堂兼体育館
調査文責 事務局長 田中裕二

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