海上保安大学校地誌~吉浦村池濱(生浜)の変遷~

海上保安大学校の敷地は、明治中期以降太平洋戦争終了まで、海軍火薬庫、兵器工廠として使用され、海軍施設となる前は「吉浦村池濱」と呼ばれ、集落があった。
海上保安大学校創立70周年にあたり年表、資料などから、当地の海軍施設となる前から現在に至るまでの地誌と大学校70年の歩みを振り返る。

池濱(生池)に関する年表 大正~昭和

この年表は、新宅春三著『年表で読む ふるさと吉浦の今昔』(平成10年)より、海上保安大学校敷地である呉市若葉町、古くは「あきのへ」「明けの夜」「池濱(生浜)」と呼ばれた地区に関する記述を引用し、関連する写真やパネル、図表などを付け加えて作成したものである。

大正元年 (1912年)

この年、池濱の海軍火薬試験所に二代目所長として波多野貞夫が赴任してきたが、彼は弾道学の世界的な権威者で、本来の無煙火薬、安定度研究以外に技術士官の教育を始めて、通称ここを「吉浦大学」と呼ばれる様になった。
この頃、海軍火薬試験所付近は、用地拡大のために盛んに山を掘削して海岸の埋め立てが進められていた。

大正3年 (1914年)

6月27日、昨年9月に池濱に移転してきた砲熕部第六工場で、3インチ砲弾に火薬を装填中、爆発して重軽傷者7名を出す事故が発生した。

大正5年 (1916年)

この頃、池濱の海岸埋立地に砲熕部第六工場の主体工場が移されて、火薬庫は江田島の秋月に移転した。
この年から、海軍大学校に入港した選科の学生が、池濱の火薬試験所に派遣されて、弾道学、砲熕兵器、水雷兵器、火薬兵器の四科に分けて一年半の教育を実施した。

大正8年 (1919年)

呉海軍工廠水雷部の計器工場(二四工場)が池濱の火薬試験所に移管されて、光学兵器(主にレンズ)の研究開発が始められた。

大正10年1月13日海軍建築部資料

大正9年 (1920年)

3月17日、池濱の六工場火薬貯蔵所第二号室が爆発して、即死者8名、重傷者6名を出す事故が発生した。重傷者は海軍病院に収容されたが後に4名が死亡し、死者12名を出す。

大正12年 (1923年)

4月1日、池濱の火薬試験所が「砲熕実験部」と名称を変えて、光学兵器(レンズ)工場建設のために、三ツ石山を大規模に削平して、現在の海上保安大学校のグランド地区が埋め立てられ、この年の末頃には、三ツ石山の削平地でレンズの製造が始められた。(光学工場を示す石標が今も三ツ石山入り口に残る※)

100年の時を超えて                            最後の火薬試験所所長「北村又吉」が残した庭園
大正12年4月9日呉鎮守府⇒海軍省宛文書

昭和6年 (1931年)

三ツ石山の南斜面が削られて、その土砂で海を埋め立て「砲熕部第二十二工場」(信管等の製造機械工場)が建設された。(現在の海上保安大学校三ツ石寮前広場)

大正15年11月4日呉鎮守府⇒海軍省宛文書
昭和3年8月18日呉鎮守府⇒海軍省宛文書

昭和10年 (1935年)

砲熕部第六工場(装填工場)と第二十二工場(機械工場)が砲熕部から分離して、呉海軍工廠火工部となった。

昭和初期の呉海軍工廠一般図より見る池濱の状況

昭和20年 (1945年)

3月19日、呉軍港を中心にアメリカ軍艦載機約350機による空襲、以後、5月5日広工廠、6月22日呉工廠、7月1日呉市街地など、複数回にわたって空襲を受け甚大な被害が発生した。(ただし、三ツ石山周辺では空襲による被害は非常に少なく、海上保安大学校移転当時、明治、大正、昭和初期の建造物が多数残されていた)

8月6日、広島に原子爆弾が投下され、立ち上るキノコ雲(原子雲)が呉海軍工廠設計係であった尾木正己氏により、呉海軍工廠砲熕実験部(現海上保安大学校敷地)から撮影された。

8月15日 終戦。

10月6日、アメリカ占領軍輸送船団約30隻広湾に入港、翌7日、本隊19500人上陸。

昭和21年 (1946年)

 2月13日、第34オーストラリア歩兵旅団など英連邦占領軍主力部隊が呉に到着。3月7日には広島県の占領業務がアメリカ占領軍から英連邦占領軍に引き継がれた。

昭和22年3月31日米軍撮影航空写真

調査文責 事務局長 田中裕二


PAGE TOP